【私の伝える道~SNS編】 お寺で法話をする動画の背景が合成だと思われた話〈TikTok法話〉

「この背景って合成ですか?」私がお寺で法話をしている動画にいただいたコメントです。
このコメントにSNSで伝道をする意義が詰まっているのではないでしょうか?

こんにちは。兵庫県姫路市にあります天台宗正明寺の小林恵俊と申します。私は「YouTube」や「TikTok」という媒体で、動画を使って法話の発信をしています。

2020年の4月、コロナウィルスによる緊急事態宣言でお寺の普段の活動が制限された時に、この試みを始めました。昨今は多くの僧侶がSNSを使った伝道に取り組んでおります。2020年4月時点でも、YouTubeを使った法話による伝道はたくさんの僧侶が行なっていました。2020年10月にTikTokで1分ほどの法話の発信を始めました。当時TikTokで発信する僧侶はまだ少なく、珍しい存在として多くの方々に視聴していただくことができました。TikTokは2023年現在、フォロワー9万8000人です。

このコラムでは、主にTikTokで発信する中で感じた、世間の仏教への関心、僧侶への期待、発信の意義について記していきます。

TikTok視聴者の不思議

YouTubeは利用するけどTikTokは使った事がないという方もおられるかと思いますので、少しTikTokというSNSの特徴についてお話しいたします。

TikTokがYouTubeと大きく異なっているなと感じる点があります。それは視聴者が私の動画を”選んで”見てくれているわけではないということです。
TikTokは以下のような順序で動画を楽しみます。

① アプリを開く
② TikTokがオススメする動画が再生される
③ 動画が気に入ればそのまま視聴。動画が気に入らなければスワイプして次の動画へ

②’ TikTokがオススメする動画が再生される
③’ 動画が気に入ればそのまま視聴。動画が気に入らなければスワイプして次の動画へ

②” TikTokがオススメする動画が再生される
③” 動画が気に入ればそのまま視聴。動画が気に入らなければスワイプして次の動画へ

以下②と③を繰り返す

つまり、視聴者はアプリがオススメする動画を「見るか・見ないか」の選択をひたすら繰り返していきます。自分から「これが見たい」と検索して探すような使い方は少ないようです。ある意味、受け身なアプリと言えます。ですから発信をする側も、自分の動画をいかに次の動画に飛ばされないようにするか試行錯誤します。「TikTokは始めの2秒が勝負!」なんてセオリーも語られるくらいです。視聴者の「もっと見たい」という欲求に訴えかけることが重要なのです。

ただ刺激を求めるが故でしょうか、度の行き過ぎた内容の動画や、著作権的に問題視される動画もあります。もちろん、あっと驚く一芸を披露したり、テレビの有名人が出てきたりと楽しい動画もたくさんあります。現状、TikTokはそんな清濁入り混じる場所だと感じています。

正直、私は不思議でならないんです。こんなにも楽しい刺激的なコンテンツが溢れかえったTikTokです。

(どんな人が、お坊さんが喋っているだけの地味な動画を見てくれるんだろう)

そう思います。

欲を刺激して、いかに継続して視聴してもらうかが大事な世界で、欲に流されないことを説く。『維摩経』に出てくる維摩居士という方は賭博場に行って説法をされたと聞きます。しかし私は清らかな心を保って説法を続けている…わけではなく、欲に流される日々です。これが正しい伝道の形であるのか迷う時はあります。

ただそれでも、”僧侶がSNSにもいる”ということが大事なんだと実感する瞬間もあるのです。

案外若い世代は相談したいことがある

TikTokでは私の動画を見てくれている人達の大まかなデータを管理者として見ることができます。例えば視聴している年齢層。データによると視聴者の内、25歳以下が25%です。35歳以下までであれば50%近くを占めます。これは普段お寺にお参りくださる方々の年齢分布と比べるとかなり若者が多いことになります。TikTokというアプリを利用する層が若いことに加えて、オススメに流れてくる動画をひたすら見ていくというアプリの特性が働いているのだと思います。つまり、今まで興味のなかった人のもとにも、仏教のお話、またそれを話すお坊さんの姿が届く可能性が高いということです。

動画が広まるとたくさんの方がコメントに感想や疑問を書き込んでくれます。また個人的にDM(ダイレクトメッセージ)で相談を受けることもあります。それらのメッセージを見て思うことがあります。それは、若い世代も生きることや死ぬことを不安に思っているということです。同時にそれを相談する相手に困っているのだと思いました。

本当なら見ず知らずのネットで見かけた僧侶に話すより、身近な人に相談できた方が力になってくれるかもしれません。しかし見ず知らずの相手だからこそ、相談しやすい面もあるのでしょう。それだけ自分の中に抱え込んだ思いがあるのだと想像します。心の内に抱え込んだ思いを吐露する相手として選ばれたのならば、光栄なことではありませんか。

私の尊敬する先輩僧侶が語ってくれた言葉が心に残っています。

「僧侶は社会の掃き溜めにならないといけない。愚痴とか不安、いろんな思いをそこに置いていってもらう存在なんだよ。」

内に抱えた思いを吐露していただけたならば、これは僧侶冥利に尽きるということでしょう。

しかし今は様々な吐き出し先の選択肢があります。必ずしもお寺にしかできないことではないはずです。それでも私は仏教と向き合う者だからこそできることがあるはずだと信じています。お寺やお坊さんに相談して欲しいのです。

お寺やお坊さんの姿を見てもらう意義

ただ現実には、若い世代にとってお坊さんというのは”珍しい存在”なのです。このコラムのはじめに書いた「この背景って合成ですか?」というコメントですが、これは私が本堂で法話をしている動画を見た視聴者から送られてきたコメントです。コメントに対して私は返信しました。

「合成じゃないですよ、お寺の本堂で撮りました。」

そこに返ってきた答えです。

「そうなんですね!すごいキラキラしていたしカッコよかったので気になりました。」

現実のものとは思えない光景だったのでしょう。その表現は褒め言葉だと思いますので、嬉しかったですし、誇らしく思いました。ただ同時に、お寺がそれだけ生活と遠い、接点のない場所なんだなということが寂しくも感じました。

そこで私が思うのは、お寺を選択肢のひとつに持ってもらうだけでもSNSの伝道には意味があるということです。

「SNSを通じた伝道では、しっかりと伝道を行うのは難しい」という指摘はあります。その通りだと思いますが、まずは仏教・お寺・僧侶がその人の人生の中の選択肢に入らないといけません。苦しい状況に向き合った時に、解決へと向かう道を求めて自分の引き出しを探した時、そこに「仏教」というアイディアが入っていなければ考えにも浮かんできません。
SNSによる伝道でお話をすることは、来たる時のために、個々の引き出しに「仏教」という選択肢を入れてもらうという意義があると思うのです。もしかしたらお坊さんの姿を見かけるだけでも、その人の人生に仏教との縁ができるかもしれません。そう信じて、私は今日もSNSで仏教を伝えていきたいと思います。

小林恵俊

kobayashi

兵庫県姫路市 天台宗 姫路山 正明寺。法嗣。叡山学院卒業後、布教師として天台宗寺院を中心として布教活動を行う。2019年には「H1法話グランプリ~エピソード・ZERO~」にて審査員奨励賞。2020年からはYouTubeやTikTokを通じて仏教について発信。TikTokのフォロワーは9万7千人を超える。



コメントは受け付けていません。