【テラ未来予想図Ⅲ】第三回返信 歩き続けることに気づいたこと。
加藤巍山
松村妙仁 様
お手紙を頂戴した秋から、なかなか社会の混乱も収まる気配を見せないまま年を越してしまい、令和5年になってしまいました。ご無沙汰ばかりしてしまい申し訳ございません。
そばの白い花は見たことはありますが、赤い花は見たことがありません。
ヒマラヤからはるばる福島に来られたのですね。浪漫がありますね。
福島はお米はもちろん、野菜や果物も豊かに実る本当に美しい土地なのですね。
下町生まれの下町育ちの私はそばには目がないので「高嶺ルビー」を使ったお蕎麦をいつか手繰ってみたいです(「蕎麦を手繰る」は江戸弁ですか?笑)
確かに、東日本大震災に関しましては、誰もが様々な思いがあるかもしれませんね。。
私も震災当初は「何かしなければ」という焦燥と、しかし何をしたら良いかわからないという思案の毎日でした。
得もいわれない不安や恐怖に包まれ無力感を抱えていたので、次の行動ができなかったという悔しい思いがあります。
松村さんは特に地元が福島ということもあり、複雑な思いやその忸怩はひとしおかとお察しします。
いえ…察し切れないというのが本音です。
当時できなかったことや思いがあるからこそ、未来に向けて出来ることを考え続け、行動し続けることができるのかもしれませんね。
被災地と関わる中で“その時”と“これから”とそれぞれ「続ける(続く)」ことが大事であると痛感しています。
過去から現在、そして未来へとずっと続いていきますから。。
いつか、その時に松村さんとお会いするご縁があるかもしれませんね。
得度は私にとってとても重要な「手続き」でした。
「仏を彫る」という毎日変わらない、淡々と同じことの繰り返しの日々なのですが、だからこそ何かに気づいてきたように思います。
烏滸がましいことですが、禅僧が只座り続ける中で悟られることと通じるのかもしれません。
当初は美しいものを彫りたい、技術的に優れたものを見せたいという「我欲」から、いつの頃からか仏の意思を私の身体を通して現すことが私の使命だと悟りました。
その仏の意思を形にするには私自身を磨き続けなければならない。研ぎ澄まし、そして透明になるのだと。
だから常に切磋琢磨し、精進することを自身に求めてきました。
そして、”その先にある領域”にその一歩を進めるには仏弟子として「得度」が必要だったのです。
個人的な話になってしまいますが、私が2歳の時に父が亡くなり、母は女手ひとつで私たち兄弟を育ててきました。
一緒に行楽地に出かけたことも、手を繋いで歩いたことも、抱きしめられた記憶もありません。
休日もなく働く母のその姿を見ていた私は、寂しいと感じる以上に尊敬とともに母からの深い愛情を感じていました。
その母が2年前に亡くなりました。
病室のベッドに冷たく横たわる母の傍で、その母の人生に思いを馳せながら横隔膜が壊れるのではないかと思うほど大声を上げて私は泣きました。
しかし、ひととき泣いたあとに、「もう、この悲しみは私が死ぬ時でいい」と泣くことをスッとやめたのです。
私の小さな悲しみや苦しみ、そして小さな楽しみや幸せというものはどうでもいい。。天(仏)の意思、問いかけに真摯に応え、使命を全うする。
寿命という限られた時間を生き切り、使い切るのだと腹を括りました。
その時々に気づきを得、道を選択し、そしてまた歩く。。
相応しい時、相応しい場所で起こる出来事はすべて必然であり、善も悪もありません。
すべては天からの導き。
それら全ての「点」が時空をこえ、一つの線でつながり、私の為すべきこと、進むべき道が朧げながら輪郭を顕し示されてきたように思いました。
1000年、2000年と遙か古から現在へと続く時間の中で、私がこの時代に生まれ、「只今此処」にいることも仏のはからいであるのだと。。
そのことに気づいた時から、私の命は私のものではなくなりました。
少し抽象的な話になってしまいましたね。
ではでは寒さ厳しい砌、くれぐれもご自愛くださいますように。
加藤巍山