【テラ未来予想図Ⅲ】第一回 拝啓 松村妙仁様

shinsai fukkou

gizan 加藤巍山

松村様がどのように生きてこられ、どのような思いで今に至られたのか…
敢えて事前にはお伺いしませんでした。

せっかくのこのような機会ですので、往き来する書簡で少しづつその言葉を噛み締めたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

「故郷は遠きにありて思うもの」

離れていても、生まれ育った“土地”や時間というのは地続きで、離れるほど、時が経つほど強くなるように思います。それが誇りとも強さともなりますね。

ではでは、簡単な私の自己紹介をさせていただきます。

私は東京の下町、両国で生まれ深川で育ちました。
現在、仏師を生業としておりますが、元々はギタリストでした。音楽学校を出てスタジオミュージシャンの傍らバンドをしており、様々なジャンルの音楽を演奏していました。しかし、のめり込む性格が災いしたのか、ある日、指が動かなくなってしまったのです。それでも練習をしなければとギターを持つのですが、それだけで嘔吐してしまう。病院にも通いましたが改善はしません…

そんな日々の中、一人で鎌倉に散歩に行くようになりました。
そこで、日本の歴史に育まれた文化…祈りの造形『仏像』に魅せられたのです。そして、「彫りたい(救われたい)」と小さくも強い衝動が胸の内に生まれ、音楽の道で生きてゆくことを手放したのです。

音楽をやっているころは時代のトレンドや欧米への憧れがあり、日本の歴史、文化、美にはまったく関心は持っていませんでした。
しかし、一本に繋がった日本の長い歴史、受け継がれる伝統、その中で生まれた「美」に気づいたとき、強い衝撃を受けたのを覚えています。

欧米カルチャーへの憧れがあっただけに強いコントラストが生じて、「日本」の歴史、文化、美がくっきりと私の中に姿を現したのかもしれませんね。

そうして、齢24歳から約13年間の修業時代が始まります。

仏師の修業に入った時期が遅かっただけに、他所様に比べると何から何まで遅く、それらがコンプレックスとなり未だに引き摺っておりますが、その遠回りが私には必要だったのでしょう。

起こることは必然で、私にとって必要だからそれらのことが起きている。出会いや別れ、遠回りも全て必要で必然。相応しい時、相応しい場所。。。ネガティブもポジティブもありません。そして、それらの現象はただの事実です。

しかし、その言葉では片付けられないほどの現実が我々を襲いました。

11年前の東日本大震災です。

あの日から、仏師としての私の役割を考えるようになりました。



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